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kage

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監禁プレイの好み

kage

2009/06/20 (Sat)

ネットでの出会いで結構、女性の希望で”監禁してほしい・・・”ってのがあるのは事実だ。もっときちんと言ってしまえば”監禁されて性欲処理にだけに使われていく存在になりたい・・・オスの性欲のままだけに犯されるだけの存在になりたい・・・”と言うものだ。

オスに対する忠誠であるとか愛情であるのではなく、”監禁”の結果として純粋にオスの性欲処理の道具としての存在になることをメスは求めるのであるのだけれども、性欲処理の道具になるってことは、メスにとって2つの側面があるように思える。

1つはオスの性欲だけを受け止めるだけの人格面を無視した肉奴隷としての側面である。オスの欲望だけを道具として受け止めるのだから、汚れることに対する自己陶酔の快楽の究極的なナルシシズムによるマゾ性の充足であろう。もう1つは純粋にセックスによる快楽の追求だろう。その蜜壷に肉棒を咥え込むことによることのみの快楽を求める事である。この場合オスの存在は、メスに対して快楽を与えるのみの存在となるのだ。

そのどちらの側面もメスとしてその女性の中で自己完結しているものであり、オスが行なう調教による”開発”の意味合いがどうしても薄れてしまうような気がするのだ。だから逆に言えば監禁する相手が誰であってもメスには関係が無く、”理想”の監禁であるなら相手を選ばないように思えるのだ。

そうなればオスはそのメスに対して求めることは射精による性的充足だけになってしまうのだ。つまりは互いに性器の刺激によって得る快楽だけを追求するだけになって、その精神性の束縛をそのセックスのテーマとしなくなる。つまりは”監禁”であったとしてもその場限りの快楽を求め合う関係からの発展する可能性は無くなるのだ。

それでは調教の側面は”監禁”プレイにはなくなってしまうだろう。調教とは本来、その肉体を通じてそのココロまで束縛し、”メスにとっては自身がダレのモノ”であるかを知ることが重要となるのだ。その調教を肉体的に受け入れることによってその精神まで侵食されていくことを意識させていくことがオスの調教の意味合いになる。

つまりは調教の精神性の部分が監禁プレイには抜け落ちるような気が僕にはするのだ。二人だけの時間を大切にして結果的に二人だけの空間に溺れていくことととその意味合いは異なるだろう。彼氏彼女の関係で触れ合っていたいからこそ、その部屋から抜け出せなくなってセックスを繰り返していくことと単純な監禁プレイは、ある種行為の”差”はほとんど無いだろう。客観的に観れば、行なってることは同じなのだから・・・しかし、その意味合いはまったく違うことにはダレだって気付いているはずだ。

セックスにおける快楽の追求は重要なことである。ただ、問題なのはそれを”目的”とするのか”手段”とするのか、なのだ。”目的”とするのであるならそこには束縛の関係は無くなるだろう。逆に”手段”であるならその関係は束縛となり、結果的に愛情となるのだ。僕はその手段の究極の形が”調教”であると思っているし、だからこそ、肉体的恋愛は存在するし、プラトニックだけの愛情以上のつながりを相手に要求出来るのだと信じている。

もっと言ってしまえばセックスで”自己完結”してはいけないのだ。これはオス・メスの性別の違いなく言えることである。セックスはどんな形であったとしても男女での共同行為であり、互いを利用して自己の快楽のみを追求するものではない。終わった後に相手から”良かった・・・またしてみたい、してほしい・・・”の次につながる感想が無ならないと言えるのだと僕は言い切れるのだ。それがある意味、その相手に対する愛情となると僕は思うからである。

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