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女教師_聖職ゆえの身体と心の乖離
2009/03/13 (Fri)
”教師=聖職”、”教師は道徳的に悪いことはしない・・・”・・・そんなレッテルはもう何年も前から崩れてきてるのだろう。新聞を見れば教師の不純異性行為でのトラブルが1年に何回載るのだろうか?と指折り数えるほど珍しくない。まあ、逆に言えば、”社会的建前”で教師は聖職者だから”そんな悪いことはしない”からこそ派手に掲載されてるかもしれない。同じような罪で問題になってるサラリーマンなんかは取り上げられないのだから・・・・つまり社会的な認識で教師は”インモラル”なことに対して、教師であるがゆえにそれを否定する存在であるのだろう・・・だからこそ、そんなトラブルがあれば、すぐに”社会問題化”されてしまう。それに”仕事”としてその生徒にモラルを教え、その鏡としなければならない部分がある。それは生徒のことを”教え子”と呼ぶのがその証拠であろう。人は”親”に性的な興奮をノーマルであるならば、持ちえない。生徒を”教え子”と呼ぶ教師は”社会的ペアレント”な部分があるのは否定出来ない。
画像はエロゲーホンポ: 恥淫ノ教室~女教師とその娘を××する~より
この画像は、ソフトハウス『エロゲーホンポ』の作品の素材を使用しています。
これらの素材を他へ転載することを禁止します。
そして特に女教師の場合、”清楚さ”を意識させられる。教師であるがゆえに、女教師になったならばその外見は”こう”でなければならない部分があるのだ。(内面は、どうでも良いと思ってる女教師も多いかもしれないけれど、そうすることによって社会的に上手く回るのであるなら、それを外面的に演じようとするのは人間的防衛本能だと思うし、そこまで狡猾でなくても理想の教師はそうでなければならないと漠然としたイメージでそれを演じてる教師も多いと思う。)
それは普通、きちんとしたスーツ姿であり、薄化粧であり、”女”である前に教師であろうとする意識なのだろう。でもその清楚さにオスは魅かれるのだ。”清楚さ”は処女性をイメージさせる。処女であることは”自分だけで汚していける”独占性につながる。過去にも競争相手のいない純粋にその娘を独占できる象徴なのだ。つまり女教師はその身体に処女性を持ちうるのだ。
そしてそれに反して肉感性を持つのも女教師の本質と言える。清楚に振舞おうとすればするほどそのスーツに隠された身体は動物的なものにならざるを得ない。それは当たり前なのだろう。その教師の本質が”女”であることは教師である以前であると言うことだろう。それをその自覚性ゆえに自身で押し殺し矛盾を抱えた存在であるからこそ、そのイメージはどこか肉感的になる。
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だからこそ、女教師の存在はその処女性と娼婦性の相反する矛盾を抱え、それを意識させるからこそオスとして教師とのセックスは特別なものとして興奮するのだ。
それに、女教師の場合は特に教師を汚れ無き”憧れ”の部分でなってしまうようだ。つまり生活のためでなく”こんな先生”になりたい・・・と思う部分で教師を仕事として選ぶ。それでも30代後半なんかになると”割り切った”部分がいろんなところで判ってくるから心の中にある理想と現実のギャップの折り合いをつけていくのだろう。
しかし20代なんかの若手の教師は理想でその性欲まで自身を抑圧してロジックと感性の部分がずれてしまって自身でも気付かないままに欲求不満になっている教師がいるような気がする。つまり日常では”教師”であるがゆえに普通の人間よりも自制があるのに・・・その”たが”がゆるんだ瞬間、心の中にある欲望のままに快楽を求めていくのだ。それは抑圧された性欲の解放なのだから、激しく快楽を求めていくようになる。
ごめんなさい・・・続きは次回で・・・
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