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kage

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奉仕の意味

kage

2009/09/11 (Fri)

僕自身、このブログでカミングアウトしているように調教好きの変態さんであるのは自覚している。セックスの内容も緊縛や露出、奉仕なんかのプレイがやっぱりメインとなる。その中で”奉仕させる”ってことが、調教によってメスに教え込ませていくことの中心になっていると言えるんだと思う。なぜなら他のプレイってのは実は、オスからメスにするプレイで、オスが受身になってメスにさせていくのは”奉仕プレイ”になるからだ。

それがどういう意味か?って言うと・・・例えば緊縛なんかは、オスの僕自身がメスの身体を縛り、首輪をさせ羞恥な姿をさらけ出させ、その束縛感にある種の興奮を覚えていくのが、その基本になる。つまりはオスが緊縛をした結果のプレイで、中にはメス自身が自力で緊縛してその姿をさらけ出すってのもあるのだけれども、ビジュアル的な興奮はあっても、メスに対する束縛感ってのがその場合、縛ってる行為がないので、当たり前ながらそんなメスに対する征服感ってのは無くなるのである。

確かにメス自身で緊縛してきて、それをさらけ出す恥女ぶりはオス自身の調教の結果であるならば、それはそれで満足する部分もあるのだが、緊縛中のメスが見せる羞恥心などが、そこには抜け落ちてて、征服感の喪失と伴って、ある意味興醒めすると言えるのである。そういうメスからすると、いつもはさらけ出せない”恥女”の部分をさらけ出し、それ以上の興奮と快楽を求めるパフォーマンスとして・・・オスをより激しく求めさせるパフォーマンスとしてそんなことをしちゃう場合もあるのだと思う。

しかし、セックスってのはある種気分の問題だから、予定調和ってのはヘンだけれども、その関係がマンネリ化してない限りには、予想範囲内でのプレイの内容のほうが充実すると僕は思う場合が多いのだ。特に調教ってのは趣味の偏りがあって、始めて表れる性癖だからこそ、感覚の”ズレ”があった場合はどこかぎこちないものになっていくのである。

そのズレが大きければ、やっぱり”醒めた”状態になってノラなくなるのは事実だろう。ハッキリ言ってしまえば、そう言う意味では普通のノーマルセックスよりも調教なんかのインモラルな部分をもつセックスは相手との感性による相性の問題ってのがよりシビアに出るってのが本音にあるのだと思うのである。

ただ実際的な部分においては、ノーマル・インモラルの区別なくセックスってのは基本的にはオスが主体的になってメスを犯すってのが定番になる。これもまたハッキリ言ってしまえば、メスの身体で興奮したオスの感情ってのは、ストレートにその身体をしゃぶり尽くし、交尾し、射精したい!!って欲望に囚われるのが普通なのだ。

そうなれば心のどこかではメスの身体に負担の掛けないセックス・・・とメスのことを思っているふりをしながらも、やはりオスの性欲をメスにぶつけるセックスになってしまうのであるのが事実だろう。つまりはメスがどのように気持ち良く感じているか?よりもオス自身の性欲を解消したいエゴが本音にあると言うことなのだ。

だからこそ、セックスのそのほとんどのプレイってのはオスがイニシアチブを握り、メスの身体を思うままに味わっていくことがその実際になる。そう考えるとセックスはメスにとってオスの性欲のままに愛撫されるままに交尾され射精されることになる。しかし、実際的にはそうではないだろう。メスだって、その性欲のままにオスの肉棒を握り、シゴき、しゃぶり・・・その乳房をオスの身体に押し付けて、またはオスの身体を舌で舐めあげ、そうやってオスを求めることもその程度の差はあれ、なんらかの形でメスだって積極的にセックスを行なっている部分があるのも事実であるはずだ。

そしてその問題はそれに伴う共通認識であると僕は考えているのだ。例えば、おっぱいなんかをオスの身体に押し付けるなんかの行為は、メス自身がオスには持ち得ないメス独自の身体の柔らかさをアピールすることを意味するのだと思うのだけれども、”オスのためにメスの身体の感触で気持ちよくなって欲しい!!”とメスが思ってするのであれば、ある種の奉仕プレイなのだ。つまりはメス自身の快楽よりもオスの悦びにそのメスの精神は充足することになるのだから、その本質は当たり前ながらオスに”尽くす”悦びになるのである。

しかし、メス自体がそんな行為で、”メスの身体はこうなの!!もっとメスを感じなさい!!メスを意識しなさい!!”になればそのメスは想像されるとおり女王様化していることになる。つまりはそこにはオスがどのように感じているか?よりもメス自身のメス性のアピールってのが上回ることになる。そうなればメス自身がメスであることの自信を保つためのアピールになるのであるのだ。そう考えれば、オスのエゴ性を満たすサディズムとはまた違ったメスのサディズムと成り得るのであると言えるのである。

つまりは、オスのサディズムってのはそのメスに対する支配欲を原点とする束縛の論理で行なわれ、メスのサディズムってのは、メス自身の魅力の確認を原点としてメス自身の魅力の保持の部分で成立するのではないだろうか?と考えるのである。もっと言ってしまえば、”私って美しい?メスとして魅力ある?”の気持ちを満たすためにオスの奉仕を求めるって部分があるのではないか?と言えるのである。そう言う意味では行為の手段なんかは同じでも、メスとオスのサディズムの違いってのはその意味合いにおいてまったく性質の違ったものであると言い切れるのである。

そうなれば奉仕って部分に関しては、オス自身がそのメスの身体をより積極的に味わうためにメスにさせる行為であるとサディズムの視点から考えることが出来るのだ。つまりはメスにそうさせることによって、”~~させている”って言う支配欲と、それに伴う興奮が奉仕にはあることになる。そうなればオス自身の趣味をメスにより積極的に押し付けていくことになるのだから、その部分において、オスの趣味で自分自身だけが満足させる方法をメスに教え込ませるのだから、そう言う意味で奉仕ってのは調教の本質であるとも言えるのである。

メスもある意味、オスに教えられたとおりにするっての側面も含めてメス自身の性欲をそこでさらけ出すことになるのだから、メスの卑猥な部分を自覚することになるとも言える。また、繰り返しになるのだけれども、”オスのために”している自覚がそこにはあるのだから、そうなれば愛情を捧げる側面が生まれ、メスのマゾ性を満たしていくことになると言えるだろう。

実際的には、オスだって自身の性欲を満たしたいって言うエゴがあって、奉仕させるにしても自身の快楽のために・・・・って感じでその意味合いに対しては無自覚であることが普通であろう。メスもオスのために・・・って感じでセックスの中の1つのプレイとして奉仕があるだけで、そこまでは考えないのは事実だろう。

しかし、無自覚でもそのような側面があるのは僕は事実だと思っている。逆に言えば、いかにメスに奉仕させていくか?が調教の本質であるとも言えるのだ。自分自身のためにメスがどれだけ積極的に淫らになってくれるのか?それはある種調教結果のバロメーターであり、支配の結果である。そのようにメスの愛情を試すような行為自体、本質的には良くないことなのかもしれないけれども、しかしそれがオスのサディストの支配欲を満たしたい欲望の所産であり、業であることをメスには知って欲しいと僕は思っているのである。
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