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kage

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二人だけの世界としての露出

kage

2009/10/28 (Wed)

夏が終わって、当たり前ながらだんだんと肌寒い季節になってきたように思える。そうなればやはりまだコートの季節ってのは早いのかもしれないけれど、それなりに厚手の服装になり始めてるのは事実だろう。つまりはアカラサマ過ぎる言い方かもしれないけれども、女性にとっては下着が透け難い服装になってきてると言えるのだろう。特にキャミやブラウスからかすかに透けて見えるブラのラインなんかは観難くなる。逆に言えばノーブラ・ノーパン露出には最適な季節だと言えるのかもしれない。

夏の露出ってのは、その普通の服装自体が薄手でそれなりに身体のラインが浮かんで見える服装であるから、メスを露出させる場合はブラなんかを脱がせたりして、かすかに浮かぶ乳首をTシャツ越しにさらけ出させたりして人込みの中を歩かせたりするのが僕の露出プレイだ。ピッチリとしたキャミなんかだとアカラサマにそれが浮かんで見えたりして、その胸の谷間なんかとあわさって、結構それだけでエロくなるのは事実なのだ。周りのオスたちもチラチラとそのおっぱいを観てドキドキしてる事を、その調教してるメスの耳元でささやいたりして、それがある意味僕にとっての夏の露出プレイであるのだ。

しかし、冬になるとそう言った感じでの露出はやっぱり出来なくなる。当たり前だけれどもどうしてもやっぱりセーターなんかのそれなりに厚手の生地のものになるから、”身体を透けさせていく”ってプレイは出来なくなる。しかし、その分、逆に言えばそれなりにノーブラノーパンにさせながらも、尖った乳首なんかにクリップを挟ませたりして意地悪するように出来るようになる。厚手の服だからこそ、そう言ったもののラインが外見からは浮かび難くなって、やり易いってのが本音にある。

まあ、このように考えるとステレオタイプの露出のイメージから考えれば、僕の露出プレイってのはどこか、中途半端で過激さが足りないものであるのは実はそれなりに自覚している。もっと激しく過激にするなら厚手のコートの下を裸にさせて縄で縛って、バイブなんかも咥えさせて、命令のままにどこでもそのコートを脱がせてオナニーさせたり極端な話、交尾したりして徹底的に露出便器に調教していくのが本当の露出調教かもしれない。

しかし実際的に、そんなプレイを行なうってことは、当たり前ながら社会的なリスクが高いのは誰にだって気付いてるだろう。法的には単純にワイセツ物陳列罪などの罪になるし、そうでなくてもそんなプレイで欲情してる事を誰かに気付かれるだけでウワサになって日常生活にもそれなりの支障になっていくだろう。もしかするとオスならともかくメスならば、それで脅迫されたりしてレイプの対象やストーカー行為の標的になる可能性だって否定しきれないだろう。

だからある意味、チキン(臆病)だと思われるかもしれないのだけれども、僕の場合の露出は周りにかすかに伝わるかもしれない部分での露出になる。それにもちろんそう言ったリスクも考えてのことなんだけれども、それ以上に事実としてその調教してるメスを他のオスに触らせたくないって気持ちがある。他のオスに盗られたくないのである。そうなれば本来はメスを閉じ込めて他のオスとの接触をさせないってのがある種の理想なのかもしれないのだが、実際的にはメスにも仕事なんかがあったりして、買い物なんかの生活があったりして・・・まったく他のオスと触れさせられない時間の使い方なんかありえないのは当たり前だろう。

その中での露出だから、周りには”もしかして・・・!?”って気持ちは持たせたい部分があるのだけれども、結局はそのプレイはメスに羞恥を呼び起こさせるものであれば良いのだから、レベルとしてはアカラサマな露出ではなくなっていくのである。つまりはオスとメス、二人の共通認識として露出が成立すれば良いのである。ネットで遊んでると、最初から露出はこんな感じだって言うものがあって、その思いに囚われて露出志願を求めるメスはいるのは事実だ。しかし、アカラサマな露出ってのはスリルを前提とした興奮であって、羞恥を伴った露出とはまた違った意味になる事を、調教するオスはそのメスに教える必要があるのだと僕は思うのである。

セックスってのは当たり前ながら羞恥を伴って隠すべき行為である。特にメスの身体ってのはオスの欲情を誘うって意味においても本来は隠すべきものである。それがだんだんとメスであること自体がファッション化してメスをさらけ出す事での魅力作りってのがメスの中に生まれてきてるのが事実だろう。そう言う意味ではメスであることを不特定多数のオスにさらけ出す事によって、メスとしての”自信”を再確認する行為に成り得るのである。その極端な行為が露出であるのは事実であると僕は感じる場合がある。そこにはある種の羞恥を伴いながらも、それ以上に”メスである魅力の再確認”の意味合いが大きいような気がするのだ。

だからそう言う意味での”二人きりの世界の中での周りに判らない、判りづらい露出”ってのは、なんとなくもの足りなさを生むのだろう。しかしどちらにしろ、メスが露出のパートナーとしてオスとして選んでくれたのであれば、オスはそのメスを”リスク”から守るスタンスを持たなければならないのだと思う。もし単純にメスに命令してリスクも全てメスに持たせるのであるのであれば、極端な話、飼い主としてのオスはその露出に対して不要になるだろう。メス自身で思うままに”チラ見せ”じゃないけれども、オスに対する”フェロモンの優位性”さえ自覚できれば良いような露出をすれば良いから、である。

オスが必要なメスの露出ってのは、そのオスの為に・・・って気持ちがそのメスの中にあり、何らかのリスクがあればオスが愛情と責任を持ってそのメスを守るスタンスの相互作用によって成り立つのである。これは露出に限っての事ではない。セックスがアブノーマル化して調教と考えられるなら、オスはどんなに性欲重視の関係であっても、結局はメスを愛して守る必要がある。その代償って表現はおかしいかもしれないけれど、それを愛情としてメスは感じ、オスに忠誠を誓って堕ちていく・・・それが本来の理想の調教関係ではないだろうか?確かにセックス前提の出会いってのはどこか割り切っての関係になってしまうのだから、そんな理想はどこか幻想でしかないのだけれども、オスとしてメスを調教する限りには、大切に飼っていくスタンスが重要なのだと僕は思うのである。
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